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Holmes TOP 作品 19世紀 ★参考文献

1837 ヴィクトリア女王即位
1839 郵便制度
1840 アヘン戦争(〜42)
1842 南京条約・香港獲得
1845 アイルランド大飢饉
1847 ●マイクロフト・ホームズ誕生。(シャーロックの兄)
1851 第一回万国博覧会開催
1852 ●8月7日(推定)ジョン・ヘイミッシュ・ワトスン誕生。
1853 クリミア戦争(〜56)
1854 ナイティンゲール、戦場に赴任
●1月6日(推定)シャーロック・ホームズ誕生。
1862 ロンドン万国産業博覧会開催
1872 ●9月(推定)ワトスン、ロンドン大学医学部に入学。
●10月(推定)ホームズ、大学入学。(オックスフォードのクライスト・チャーチと思われるがケンブリッジという説もある)
1874 11月30日、W.チャーチル誕生
●同級生から依頼された事件を解決(『グロリア・スコット号』)
1877 ヴィクトリア女王、インド皇帝となる
●ホームズ、ロンドンのモンタギュー街にある一室を借りて、探偵コンサルトを開業。
1880 ●ワトスン、軍医としてアフガニスタンの戦地に赴き、重傷を負う。
1881 ●1月、ワトスン、下宿探しを始める。… 旧友スタンフォードとクライテリオン酒場で出会い、聖バーソロミュー病院化学研究室でホームズを紹介される。
ベイカー街221Bに共同で部屋を借りる。家主はハドソン夫人。
●3月、『緋色の研究』事件… ホームズとワトスンが初めて一緒に手がけた事件。
1884 グリニッジを万国子午線と定める
1886 ●11月ワトスン、コンスタンス・アダムズと結婚。ケンジントンで開業。
1887 ●ワトスン夫人、コンスタンス死去。
1888 切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー)事件連発
(イーストエンドのホワイト・チャペル付近で起きた売春婦連続殺人。現在も犯人は判明していない)
1889 ●ワトスン、メアリー・モースタンと再婚。パディントンの診療所に移る。
1890 ●ホームズ、スカンディナヴィア王室に助力。
1891 ●モリアーティ教授に戦いを挑む。『最後の事件』。
ホームズはモリアーティ教授と対決し、スイス・マイリンゲンのライヘンバッハの滝で死んだとされる。
1892 ●メアリー・ワトスン死去(推定)
1894 ●4月、ホームズ生還。『空家の怪事件』。
●5月、ワトスン、パディントンの診療所を売って、ベイカー街のホームズの下宿に戻る。
1899 ボーア戦争(南アフリカ戦争)(〜02)
1901 エドワード7世即位
1902 ●ワトスン、クィーン・アン街へ引越し、3度目の結婚をする。
1903 ●ホームズ、引退。サセックス丘陵のフルワースにある海岸沿いの家に移る。
1910 ジョージ5世即位
1912 ●ホームズは英国政府の依頼により、対ドイツ諜報活動をする。
1914 第一次世界大戦勃発。ドイツに宣戦布告。アイルランド自治法
1929 ●7月24日、ワトスン死去(推定)
1946 ●11日19日、マイクロフト・ホームズ死去(推定)
1957 ●1月6日、シャーロック・ホームズ死去(推定)



19世紀初めに経済恐慌に陥るが、産業の発展によりヴィクトリア女王の時代に英国は繁栄を極める。

都市労働者に選挙権が与えられ、後には小作農民層にも選挙権が与えられる。婦人参政権法案は何度も議会で討議された(1928年にようやく男女平等の普通選挙が実現されることとなる)。また労働組合が合法化され、義務教育制度が制定された。

交通の発達によって地方から職を求めてロンドンに人々が押し寄せ、また海外貿易がより盛んになり、港湾設備も拡大整備された。 ロンドン市街地の道路や建物はこの時代に作られたり、以前からあったものを建て替えたりしたものが多いなど、まさに繁栄・栄光の時代であった。

一方、ロンドンに限らず都市にはスラム街もあり、貧しい下層労働者も多数住んでいた。より良い収入を求めて貧しい人々が新興産業都市に移住する動きが活発になったのである。
貧困が根本的な原因で無秩序な街が形成され、産業革命がもたらした資本主義による社会の暗部がここにはあった。しかしインドの植民地支配や多くの産業が軌道にのったこと等により、景気は回復し下層階級の生活も多少は向上した。

貧富の差は依然としてあり、世界の新興国(米国やドイツ、フランスなど)の発展によって大英帝国に翳りが見え始めた19世紀後半にホームズは活躍したのである。